名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

これは誰の法事なの

正徳4年10月18日。
行赦が5人ある。

名代は駿河守(大道寺)が衣冠で勤める。
紀州から使者は寄合渋谷留之右衛門、御馳走人野崎源五右衛門が勤める。
水戸よりの使者、御供番堀田左内・御馳走人榊原孫助が勤める。
九条様からは使者はやって来なかったが、香典の黄金ならびに御経などは届く。
本願寺門跡からも使僧・納経と黄金1枚が届く。
こちらは内縁があるので焼香を行う。
そうでない日蓮宗本願寺は椽側で拝むだけであった。
香典金2枚は瑞祥院(徳川吉通正室)様から。
銀5枚ずつ摂侯(松平義行)・雲侯(松平義方)から。
同3枚ずつ日向(松平義孝)様・但馬(松平友著)様から。
1枚ずつ求馬様(徳川宗春)・伊織様(松平義武)・妙園院様(徳川綱誠女子)・栄姫様(松平義昌養女?)。
法事が終わり、人が退いた後の未(午後1時)過ぎ、瑞祥院様が枕町を通り、詣でる。
円覚公様(徳川吉通)・真巌公の廟・霊屋の4ヶ所を詣でる。
家中の拝礼は翌19日に行われる。

昼頃と未(午後1時)過ぎの2度、父親から血が大量に出る。
食事は召し上がらず。
時々薄い粥の湯を蛤貝で3口ほどずつ召し上がるだけである。
(中略)。酉半(午後6時)、小便と起き上がり、終わると顔を下向きにしてものも話さず。
人々は騒ぎ始めるが、文左衛門が脈を診ると異常はなかった。
やがて元に戻って臥せられる。
文左衛門は1晩中枕元に控える。
宵に薬を貝で2度召し上がるが、その後は嫌だと召しあがらず。
湯も2度召し上がる。
辛い丸薬を求められ、文左衛門がかみ砕き2度飲ませる。
夜中に嘔吐が5、6度り、水と薄い痰を吐く。
寅の半(午後4時)前、嘔吐の上に、右の脈が絶え、左はか弱かった。
しかし、口で唱えることは途切れなかった。
その前に話したのは、昔は嘔吐の際には神仙解毒と万金丹を用いるとよかったと。
急に望まれたので万金丹を半分くらいにかみ砕いて飲ませる。
その前には数取(数を数える道具?)を言って取り寄せ、両手で繰った。
それ以外は両手を組み、常々の御勤のようにしている。
薬粥のことを話すと吐くので嫌だと言う。
寅半(午前4時)過ぎには既に最後と思われたのか目を見開き、文左衛門の手に取りつく。
しばらくすると脈がまた出てきて文左衛門に向かってなぜ起きている、行って寝ろと話す。
母には寝ろと話す。
苦しむことなく言葉も普段通りだった。
文左衛門は頭を押さえ、手を握る。
発病からこれまで少しもうなるようなことはなかった。
痛い、苦しいとは一度も言わなかった。
呼吸が荒くなることもなくただいつも通りであった。