正徳4年8月30日。
御中屋敷に住む中野与二右衛門は御庭の者の頭であった。
娘の男の子は円覚(徳川吉通)公の子と云々。
御局と今泉佐左衛門などは円覚公の子ではないと言ったが、少しは関係がなきにしもあらずと云々。
この男の子は今年の夏頃のことか江戸から名古屋へ戻り、御中屋敷の中にいた。
諦門の伝光院での談義は評判にならず。
高座の上で三十三所の巡礼の歌を歌う。
座の者もついて歌うが興ざめであった。
橘町の妙禅寺七面で今月29日から談義が行われる。
萱津妙勝寺、熱田本遠寺が行う。
妙禅寺の七面は昔大公が腫物の際、茶屋長意が願い出て自ら七面の像をはりぬき(張り子)にしたが、それから今年で33年であった。
その上、法花陀羅尼品一万巻の供養が行われ、銭28文が一人前、3年以来の講であった。
9月1日・2日陀羅尼惣供養が行われる。
音楽を奏でる。
寺社奉行への願いは済まし、熱田の楽器を本遠寺が上手く言いくるめて借りたが、笙の舌が壊れ、篳(ひち)りき(篥)の口がなくて音が出なかった。
神仏の妙かと云々。
神仏を穢したことは社家の大罪であった。
このため十人衆の手紙をもらい、妙禅寺の住持が熱田の正覚寺へ行き、いろいろと話をした。
俊極上人は人柄がよかったので貸し与えた。
この間いろいろと手間がかかり、役者なども不足し、1日と2日は音曲が鳴らず、3日にようやく始まったが笛・笙はふうふうと鳴るだで、どうしようもなく、太鼓は適当にどんどん、鉦も調子外れにこんこん、はなはだおかしなことだと云々。
また百姓が飲食を提供すると言って一宗の男女をだまし、1人200文ずつとって147人がだまされたと云々。
橘町七右衛門はにくきやう(肉桂?)1つを1匁ずつで渡したが、粗末なふち(縁)高で、供物もまた粗悪であった。
住持も怒って1日の夜から激しく争い、飲みすぎて堂の縁に吐く者もいた。
仕出しの椽が落ちて、婆が腰を打つなど滅茶苦茶であった。
今月26日。法花寺町妙泉寺が不義のため追い出される。
法花寺隠居の弟子であった。
正徳4年8月29日。
瑞祥院(徳川吉通正室)様、江戸を輿で出発する。
御昼は蕨、御泊りは大宮、この間は8里半(1里は約4キロ)余り。
30日、御昼は桶川、御泊りは熊谷9里。
9月1日、御昼は本庄、御泊り倉加野9里。
2日、御昼は板鼻、御泊りは坂本9里余り。
同3日、追分、御泊りは望月10里余り。
同4日、御昼は和田、御泊りは下諏訪10里余り。
同5日、御昼は塩尻、御泊りはにへ川(贄川)7里半余り。
同6日、御昼は宮越、御泊りは上松9里余り。
同7日、御昼は野尻、御泊りは妻籠9里余り。
同8日、御昼は中津川6里半余り、御泊りは大井。
同9日、御昼は大鍬、御泊りは御嶽8里。
同10日、御昼は土田、御泊りは小牧8里。
同11日、名古屋3里。(後略)