正徳4年6月3日。
極楽寺の鐘鋳の供養が行われる。
明6つ半(午前7時)、数十人の僧が行導の読経を行う。
同じ時刻に撞き初めが行われる。
参詣は明7つ(午前8時)前から行われ、集まった人は6000余りと云々。
辰(午前7時)頃、主以智が名残の説法を行う。
最早再び来らじ、是が今生の暇乞結縁くちせず、来世は一蓮托生と聞こえると、参詣の者たちは泣き始め、銭を放り投げると上手くお終いとなる。
群衆が出る時を見計らって、鐘の上の仮屋から餅や銭をまく。
これを取ろうともみ合い、押し合うと云々。
餅は2石と云々。
鐘名。序は略す。
有機而応・依感而通・手幽于顕・同証円通。
熱田正覚寺堅空上人の作である。
ただし鐘には極楽寺住持俊旭とあった。
主は方丈の座敷にいたが、数千人が暇乞と無理やり押し入り、十念(南無阿弥陀仏を10回唱えること)を請ける者、剃刀を望む者もあった。
三帰依(仏・法・僧の三宝に帰依すること)が望みという者もあった。
血脉(仏法相承の証する系譜)という者もあったと云々。
この夜は鍛治屋町かがや伝左衛門のところに泊まる。
1晩中訪ねてくる者が数100と云々。
翌4日卯(午前5時)過ぎに出発する。
男女老若がどやどやと枇杷嶋あたりまで野送りのように泣きながらついて行くと云々。少し前から大坂より米沢彦八がやって来ておとし咄(おちのある話)、を行い、人が多く集まっていた。この日急に死んでしまった。喜太郎という者が銭をモウケヨウト呼んでいたが、かえって大損だった。