名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

治安維持のためですかね

正徳3年10月22日。
小頭寄りの廻文により、未(午後1時)過ぎに御頭のところへ出向く。
殿様は不例(病気)で養生されていたが、去る18日に逝去されたことが江戸より申してきたことがたった今修理殿より伝えられた。
今日中に集まり次第目立たぬようにこの御悔に修理殿へ出向くようにと云々。
月番靭負殿へは驚いて御直参衆多くが出向いた。
馬廻等は見当たらなかった。
御屋形では隼人正が殿様が早世されたので御家中の輩は身分にかかわらず騒ぎ立てないようにと云々。
口上で出向いた輩衆に申し渡され、書付も出る。
文左衛門などへもこの書付が頭から23日に廻ってきた。
御屋形において寄合18人に靭負殿から城下廻りを言い渡された。
広井廻り、東は久屋町まで。
足米・400石の積り武田文左衛門・300石、脇部沢右衛門・300石、高木治右衛門・400石、稲葉九郎左衛門・300石、松平久兵衛・400石、奥平平六。
山口廻り
・800石、河村九郎右衛門・400石、津金武右衛門・500石、荒川治右衛門・400石、竹中八大夫・500石、稲葉源七・400石、日下部郷右衛門。九郎右衛門は5日ほど廻って腰痛で退き、その代わり中根新六が25日から。800石の内100石は蔵米。武右衛門も後に退き、その代り600石、原甚九郎、郷右衛門も同様。その代り浜嶋宇右衛門400石。
三の丸巾下及び堀川西廻り。
・500石、小菅一郎左衛門・400石、成瀬又平次・600石、河村次郎兵衛・400石、松井勘兵衛・350石、石川助九郎・600石、若林治左衛門。
右はひとところで昼は3人、夜は3人で勤める。
1人で2時(1時は約2時間)廻りで昼夜途切れることなく行う。
馬を持たない者は慌て買い求めるか、馬を借りた。
平服で目立たぬように廻るようにと云々。
袴を着て、あるいは袴なしの供廻りのいつもの服装で。
後には歩いて廻る者も多かった。
22日より11月14日まで廻った。
同日、四ヶ所警固も御馬廻りから仰せ付けられた。
熱田口。
・250石、内100石は御蔵米服部四郎右衛門・300石代、取田治左衛門。
枇杷島口。
400石、細野篠兵衛・250石代、志水平右衛門。
川名口。
250石代、成田内左衛門・300石粕谷郷右衛門。
内左衛門は病気のため林権右衛門が出かけたが、その内左衛門が回復したのでまた出かける。
14日まで内左衛門が勤めて250石。
郷右衛門は病気のため大塩波右衛門が出かけたが、郷右衛門が回復したのでまた出かける。
14日まで200石で郷右衛門が勤める。
大曽根口。
300石、平岩金大夫・250石、曲淵彦助。
金大夫は病気のため、11月1日阿部喜右衛門が300石で出かけ14日まで勤める。
この口々では町屋2軒を空けさせ、1人ずつ引っ越してきた。
手元の人数で昼夜不測の事態に備えた。
第一に他国者で怪しい者を問いただした。
かさしたる(笠するか?)者からまず問いただした。
百姓などは他国者であってもやたら問いたださないと云々。
自分自分の幕を張って詰めていた。
中間・足軽などを願い出たが叶わなかった。
この他御馬廻り衆・御使者留なども前々の通りにいた。
この日から町中では蔀を下ろし、商売は朝の内少し行ったが、その後は行わなかった。
町々の木戸は酉(午後5時)に閉め、戌(午後7時)からくぐり(くぐり戸)も通さなかった。
円覚院様(徳川吉通)の時は亥(午後9時)からくぐりを通さなかった。
21日の日付で諸事穏便の廻状がこの日廻った。