名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

役所もグルのようだから、殺されても仕方なかったか

正徳3年9月6日。
襲封につき定光寺へ名代を嶋沢仁大夫が勤める。
家督二人(ママ)は前川の増水のため昨晩ようやく到着する。
この日御家督の廻文がある。

夜、鈴木十郎兵衛が他から戻る。
この2月から奉公していた若党村瀬藤七が、自分の長屋から密かに白刃を持ち出して十郎兵衛が中門をくぐるところを後ろから首を切る。
鞘は抜いて長屋に置いてあった。
耳のあたりから切りつけ、一太刀で死んでしまった。
そこへ現れた十郎兵衛嫡庄左衛門が藤七を仕留めたことになっているが、実は藤七が自分の腹を突き裂き、自殺していた。
十郎兵衛は56歳であった。
町奉行の考えで召仕に親を殺されたは面目がないので立ち退くとの書置きを書かせ、庄左衛門と二男劔之亟二人とも立ち退く。
世間では立ち退かなくてもよかったのではと。
ただし、これも十郎兵衛の以前からの悪行のためかと云々。
近頃、藤七は自分の刀を刀装に出しているので、庄左衛門の短い刀を貸してくれと言っていた。
庄左衛門は中村三郎兵衛から買い求めた飛騨守で、未だ刀装もしておらず古いけれど使ってくれと言って貸し与えた。
これはいい刀だと聞いていたので貸してほしかったと云々。
庄左衛門は近松孫兵衛のところにおり、このことを聞いて帰ったが、最初から家にいたことにしたと云々。
十郎兵衛娘の婚礼のため大久保見町の町絵師に屏風を描かせ、広小路本町上る箔屋九兵衛へ箔を取りに藤七を行かせたが、前々から懲りており、現金がなければ渡さなかった。
もう一度と3度も行かせたけれど渡してくれなかった。
その後中間を行かせ、町代に請け負ってもらい、請け取ってきた。
十郎兵衛は藤七を𠮟りつけた。
同じ中間が行って請け取ってきたのになぜお前はできないのかとはなはだ悪口を言い、箒で叩いて追い払った。
6日の朝、庄左衛門が髪を結おうとしていると、藤七が誤って元結を踏んでしまった。
庄左衛門が怒って𠮟りつけているところへ十郎兵衛もやって来て2人で踏んで蹴りつけた。
藤七はとても面目を失い、長屋へ入って病気といって出てこなかったと云々。
この日十郎兵衛が施行場へ出かけようとしたところ、中間の草履の直しが遅いと杖で叩いたと。
中間は泣いて憤ったと云々。
町では買い物は勿論のこと、当分借りといって金銀などは全く返さなかった。
法にも道理にもはずれており、町人は十郎兵衛を疎んじ罵っていた。
役所の不届きもどうしようもないと云々。
召仕にはなはだ性悪と云々。
先年召仕がいなくなった時も請状がなくて困ったと云々。
妻は熱田祢宜の娘であった。
少し前、妻の父に頼まれ、町中に無理やり寄附を募り60両余りを集めていた。
町奉行はこれを聞きつけ、仲間に内密にほのめかせて止めさせていた。
十郎兵衛は祢宜へこういうわけで奉加は中止になったと2、3両与え、残りは自分で受け取っていた。
小藤善介妻は十郎兵衛妹でこのことに関係していた。
十郎兵衛2人の子どもはこの女と仲が悪く、十郎兵衛の面前で罵り合って叩き合い、時には熱湯を顔に打ちかけた。
十郎兵衛はこれを見ても少しも慌てもしなかった。
十郎兵衛のことを前から謗る歌があり、仲間4人のことも読まれていた。(歌略)