正徳3年8月16日。
昨夜丑(午前1時)頃、土田を輿が出発し、卯半(午前6時)に小牧へ入る。
決められた時間があるのでここで待ち合わせ、味鋺でゆっくりと小休止をとる。
未8刻(午後2時半過ぎ)、建中寺に入る。
長柄、弩俵(旗印)、鉄砲、弓などは建中寺の西の辻、青山儀左衛門辻から別れ、寺へは向かわず。
寺へは供の馬が1疋であった。
白木の棺であった。
性高院・高岳院が側に付き、棺の前で伽藍を焼き、跡から五十人新井伴左衛門が香炉を捧げる。
御家老衆・年寄衆以下御用人衆などは皆白帷子で、その他にも白帷子を着る者が多かった。
文左衛門は我慢ができず、棺を拝んでいく筋かの涙を流した。
隼人正・飛騨守・周防守・肥前守・靭負・主悦は北の堀端の側惣門から20間(1間は約1、8メートル)ばかり西の方へ向かわれ、西から並ばれる。
少し間をあけて両御城代、よほど間をあけて図書・権平・新兵衛が並ばれる。
南の方では文左衛門の前には甲斐がいた。
西を先頭に寄合衆が二重に並ばれる。
通られる道の1、2町(1町は約100メートル)外までも全ての店は閉め、火も焚かずひっそりしていた。
通られる筋の侍屋敷は門を閉め、連子を板で塞ぐところも少しあった。
町でも一切外に出て拝んではいけないと云々。
そのため辻々に1人も見当たらず。
ただし辻1丁離れて遠くから拝むのはかまわない。
味鋺・安井の舟橋は御船奉行が設ける。
志水から長塀筋を東へ相応寺前を通り、建中寺堀端に沿って通り。足軽は麻の上下で前年の通り辻を警固する。
隼人正同心は志水福嶋忠兵衛前から南東へ少し回り込んでいる。
壱岐守同心は可笑軒の辻におり、飛騨守同心は山寺甚兵衛の辻に、御城代組は建中寺後ろの辻にいる。
本寿院様(吉通生母)からの御附人は吉田理兵衛が勤める。
葬送の日には名代を勤め、翌日江戸へ帰る。
瑞祥院様(吉通正室)から佐久間源兵衛が勤める。
摂州様(松平義行)から鈴木庄右衛門、右近将監様(山崎英貞)から小川惣左衛門、大隅守様(徳川継友)から御用人小塩彦左衛門、安房様(松平通温)から市野辺七之右衛門、但馬守様(松平友著)から林市大夫が勤める。
万五郎様(徳川宗春)から御抱守大田甚右衛門、日向守様(松平義孝)から小笠原半内が勤める。
江戸を出棺の時、車力(地名)の御庭口から出られる。
冨士見下のあかずの門から外へ出られ、五段から乾角、それから原町へ向かわれる。
出発の際は車を担ぐのからから渡し(手渡し?)にする。
所々でえいやなどと言って、甚だ無礼にも輿を上げる。
出発の際、御老中は80両、御用人は40両、御供番など三百石取などは15両を拝借と云々。
供の五十人衆32人、小頭3人でこの内32人はつぶる(役にたたなくなる?)。
他に小頭1人、御歩行8人のうち2人はつぶれ、その他は全員最後まで役をやりとげる。
棺が建中寺本堂へ入ると残らず戸を閉め、中に火を灯す。
3つは閉じ、その東の路次口から出入りし、惣門も閉じ、くぐりだけを開けて通る。
御膳部は白木の三宝(方)で御小姓が給仕する。
前年の如く御供番・御書院番・新御番・五十人衆などの番をする。
御側同心頭・御国御用人と御用人とが交々昼夜建中寺に控える。
ただし、葬送の時まで。
初夜と晨朝の鐘はいつもの通り行われる。
ただし逝去の際は3日晨朝・初夜の鐘を撞かなかったと云々。
小笠原半平は腫気(むくみ)で江戸から馬での供はできなかった。
乗物でやって来て、建中寺でも坊主衆が左右を介抱し、杖をついてようやく歩けた。
翌日から出向くこともできなかった。
津田兵部の牽いた馬は道中で死んだと。
筑摩川は増水していたが、棺を少しも気にすることなく川上を何人かで巻き付けて渡り、向こう岸に着いからは休憩するなど落ち着いたものであったと。
また兵部と主馬とは寝覚めへ行き、酒を呑んだなどといろいろな噂があった。
建中寺惣門は加藤伴左衛門・藤田左門、三門は星野勘左衛門・大崎半兵、裏門は近藤弥五大夫・蜷川伴左衛門が勤める。