名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

大往生です

正徳3年7月12日。
大竹又左衛門は少し前から出家し、万随と名乗り、鉢ひらき(托鉢で金品を乞う僧)の躰で東の出来町に住み、その後通所の裏町に住んでいたが、博奕などの宿をしていたかと云々。
今朝隼人正から又左衛門が入道を捕らえにやって来る。
尼の妻はこれをはばもうとして文句を言うと云々。
隼人正は自分の牢に入道を入れ置く。

未下刻(午後4時半前)、天野源蔵の母が80歳で死ぬ。
11日朝源蔵に話したことは、前の夜死んで蓮華蔵世界というところへ行ったと云々。
夢に人が現れ、往生する時だと高原の清地に座らされた。
下を見れば果てしない蓮池であった。
紅白の花は夏の盛りのようであった。
たくさん子どもたちが歌い踊っていた。
西を仰ぎ見ると、沈む太陽の光が強く目を射た。
池の中の金の三尊の立派さは栄国寺の本尊のようで、他にも菩薩なのか輝くばかりの装束の者がたくさんいたが、霧が遮る花のようでちらちらして見分けられずと云々。
源蔵夫婦は右のほうにいて、少し憂い顔だった。
母は戒め、どうしてこんなにめでたいときに憂うのだと十念し、頭を垂れようと思うと夢が覚めたと云々。
もはや臨終まで時間もないので、今年だけの聖(精)霊祭を輝かしいものにするように云々。
源蔵は畏まり、心を尽くして祭供などを丁寧に自ら務める。
12日には隠居屋を母自らが命じて掃除をしたのは煤掃きのようであった。
長年安置の仏像を出し、供物がいつもより美しいと悦び、髪を洗い、行水をして新しい帷子二つを着て伽藍を焼き、日中の勤めをし、夕飯をいつもの通り一椀半食べ、茶も快く飲んだ。
しばらくして眠るように仏前に頭を北向きにした。
医者がやって来て人参膏を多く用いると意識がはっきりした。
針・薬を様々用いるが、次第に火が消えるようになり、もはや薬は無用と言う。
心苦しいかと源蔵が問いかけると少しも苦しくはない、このまま仏になると微笑み、それからは念仏だけを口にした。
禅定(瞑想)に入るように静かに息をひきとった。
翌夜、性高院に葬る。
淳恭院法誉知誓淑宝大姉と。

12日夜、井上甚之丞妹で河崎友右衛門妻が産前に痰が詰まり急死する。
翌夜、埋葬の支度中に友右衛門の召仕の女が首を吊って死ぬ。