正徳3年5月15日。
稲荷は水茶屋(境内などにある茶屋)を許可される。
茶屋株は社の南隣の蠏江清次郎と門前町の町代井桁屋市左衛門へ申し渡しがこの日ある。
蠏江清次郎は以前は以春といい、聖落ちの子で双子であった。
同じ時に生まれた弟は真言の僧であった。
市左衛門は人をだますような悪人であった。
申し渡しには、18、9過ぎの見た目の良い者で衣服は汚くないようにと。
何やら変な申し渡しであった。
市左衛門には寺社奉行から、清次郎には御代官蛯江角右衛門から申し渡しがあった。
角右衛門から直接聞いた話では、前々は7軒とのことだった、望む者が多くあれば次第に増やすと。
大須の開帳は50日を迎え何の障りもなく、今月12日に午の時(午前11時)には供養法が始まり、未の上刻(午後1時)閉帳する。
院主が戸を閉め、下座して拝むと。
以前から道心者(道心坊)数人を雇いおき、外陣(一般の人が拝礼する場所)で大鉦を打っての大念仏を行う。
真言宗ではいまだかつてない様子だった。
参詣の数は数千人、これはこれはと一同で掛念仏を行い、群衆は念仏願を行い、この功徳だとさらさらと善の網を納める。
門前で甚四郎は付け物(狂言)を行っていた。
江戸からやって来た3月以来物まねをしている不乱という坊主に枝(ママ、橦)木町の女が惚れこんで毎度やって来ていた。
中立(仲介)が1人もおり、40ばかりの女であった。
この日で不乱とも別れだと聞き、数十人の中を押し分けて床際まで近寄り、銭100文を2つにねじ切って放り投げた。
それを見た者は興ざめしたと云々。
大念仏で不乱も堂へやって来るとしっかり抱き付いて深情(愛情)を述べた。
不乱は肝をつぶして逃げ出たのをどこまででもと追いかけ、皆があれは浮ついた女だと言った。
200人ばかりが後を追いかけた。
坊主は人に紛れて逃げ去った。
女がさまよっていることが伝わり、参詣の帰りにどれどれどこじゃ何事じゃと取り囲んだ。
そうなると女は恥ずかしくなり、向かいの飴屋へ走り込んだ。
皆が集まり、あれあれあれじゃと押し入り、飴屋はわけがわからなかったが、おなご衆は出て行ってくれと追い出した。
女は髪もほどけて乱心のようになり、万松寺筋を東へ走って行った。
皆もまた見るものもないのに追いかけて行った。
騒ぎに紛れて女を見失った。
後にこのことを絵馬に書き、大須の堂に掲げた。
この女は幼少の時に源右衛門のところにいたカネという女であった。
この春までは志水八大夫に奉公しており、八大夫が江戸へ行った後に八大夫が囲い置いていた。
今は伯母と一緒に芦沢源五左衛門のところに住んでいた。
また言うには、中立の女は不乱に会わせてやると仲介し、不乱は貧乏なので新しい木綿の袷を着せて会えばよいと偽ってカネから金などをだまし取ったと。
不乱はこのことを知らず、カネを見ても知らぬふりをしたのでカネは怒って恨み、ここに及ぶと云々。
納屋平左衛門は近頃江戸から召された。
以前は平吉といい、下手な浄瑠璃語りで伽羅(きゃら)の油売りだった。
12石のはずでやがて江戸へ下ると云々。