正徳2年11月2日。
智多郡円福寺村の年貢米50石を積んだ船が今日鬼ケ崎で難破し、船頭1人が死ぬ。
7日までに45石を引き上げる。
先月30日、供番寄田清大夫が病気の願書を出すからと仲間の石川元右衛門・内藤勘之丞・増田只左衛門に頼んだ。
増田が言うには願書は2人で持参するべきだと。
しかし自分は一番の御使であると。
寄田は何とか出てくれと言うが、増田はそれならば10日待って使番を終えてから持って行くと言ったけれど、聞き入れる様子もなくどうするか決まらなかった。
その場はそれで終わったが、この日申刻(午後3時)寄田1人が増田のところへやって来てとにかく出てくれと言った。
増田は前の話をしたが、日ごろから出入りしていたので夕暮れにまた勝手へやって来た。
先ほど軽率なことを言ったこと言ってしまった、気にかけていたので許してくれと言った。
増田が気兼ねなどするな、気にはしていないと言った。
また寄田は出てくれと言った。
増田はあきれて酒を飲ませながらなだめていると、不意に脇差を抜いて切ろうとした。
増田と組み合いとなり、増田は肘を少し切られ、指も2ヶ所少し傷ついた。
側にいた者がこたつぶとんを寄田にかぶせ、組み伏せた。
寄田は組み伏せられると熟睡し、大きないびきをかいた。
そして湯漬けを食べ、たばこを吸った。
まさに乱心であった。
これが近所に伝わって人が集まった。
寄田のところに伝えると安左衛門がやって来て見たが、自分一人では乱心と決め難いので、帰って一家と相談してから申し入れると云々。
寄田一家からは酒に酔ったことにしてくれと言ってきた。
増田のところからは、いずれにしてもどうするかは一家で決めてくれ、こちらはそれを請けて報告すると云々。
しかし隠しがたい乱心であった。
第一病気で願いを出すと言っておいて、増田のところへ行くこと自体が乱心である。
用があるのなら自分のところへ呼んで会うべきではと言った。
増田はうろたえて騒ぎ、見苦しかったとの噂もあった。
流血して気絶したとも。
安左衛門は従弟、手嶋杢内は舅であった。
ただし、百姓の娘を娘にして遣わしていた。
寄田は淫乱で行いが悪かった。
茶の間の飯炊きを孕ませ、酒2升ずつを1日に飲むと。
杢内に預けられるはずのところ、実の婿ではないと言うので吟味の間は清大夫のところに置いた。
一家で見張るようにと。
やがて杢内のところへ18、9日頃に引き取る。