名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

まるで百姓の家ならいいみたいな書き方だな

正徳2年9月7日。
昼頃から津嶋橋西の向嶋上のはずれにある後家の家から出火する。
30軒ばかりが焼け、大方は百姓であったが、町続きの良き家も10軒ばかりあった。
未(午後1時)頃鎮まる。

今井甚左衛門などは京都を出発する。
昨6日に九条様は祝いの料理を高橋・蔦木・今井等に下された。
その前に御口祝いとして装束で上段に着座された。
何れも麻の上下を着て、まず高橋が上段に上がり、謹んで両手を差し出した。
御手自ら熨斗と昆布を銘々下された。
次に蔦木・今井・安藤・恩田が出て、その後料理が下された。
九条様から高橋・蔦木・今井にはさあや(紗綾、絹織物)5巻、六歌仙箱入を各に下された。
安藤・恩田には3巻に六歌仙を各に下された。
堅宮様から高橋・蔦木・今井にちりめん(縮緬)紅白3巻ずつを下され、安藤・恩田には2巻ずつ、甚左手代本締めには銀3枚、そのうち1枚は堅宮様から平手代ならびに大工、浜田宅右衛門と江戸材木奉行の手代1人に、一様に青胴300疋ずつ下された。
そのうち100疋は堅宮様から。
高橋・蔦木・足軽には下され物はなし。
先月28日の摂政奏慶の時も高橋などにははいけんするようにとのことであったので拝見していた。
引っ越しをなさる際も時服と肴を下された。
去年の棟上の時も同様で、その他にも時々に肴を下された。
西村壱岐宅へ呼び、供応されることも度々あった。
養山が残り、絵を描き、本締手代飯嶋久左衛門と他に手代2人が残った。
九左衛門は病気となり、女房が隠れて看病に行っていた。
甚左衛門などはこれを知らないことにしていた。
文左衛門は六歌仙を見ており、花色紙という普通のよりも小さい、いろいろと花木などを描いたもので、余白には彫透かしたものであった