正徳2年7月13日。
町奉行から命令がある。
町中が困窮し、御用金も納めていないのに華美に踊ることは無用である。
普段の衣服で十分だと云々。
このため子ども踊りなどは大方なくなってしまい寂しかった。
しかし、寺社にはこの命令はなく、辻の反対では踊っていた。
法花寺町常題目前の踊りなどはとても華美であった。
少し前、市川甚左衛門の見立てでは濃州板取七増山が御留(立入禁止)となれば8年すれば御台所の薪・炭は足りるようになると云々。
御国奉行や相役へも知らせず、自分1人の才覚であると云々。
成瀬藤太が取り次いで御耳に入れて行ってきたところ、村の者が一切山に入れなければ差し当たっての薪もないと強く願い出た。
これは何とかした。
しかし、板取は山ではあるが6000人ほどが暮らすところで、山へ入るのを禁じられては6000人が飢え死にすると大勢で訴え出た。
そして治左衛門・金右衛門を頭にして名古屋へ出かけて願い出た。