正徳2年7月6日。
昨年、関東からの命令で海道の諸駅に時の鐘を置き(ママ)、鐘を鳴らして時を告げる。
あるいは撃拆(拍子木)で時を告げる。
清須では少し前清涼寺に清須代官柴山百助が製作した鐘が出来上がる。
今月鳴海の時の鐘を鋳造し、護頭山如意寺に置く。
製作は三宅善八が請けたので、天野源蔵が造る。
年号の下に天野信景製作と書き、邑宰三宅善八・藤原重行、護頭九葉、海岑和尚及び鋳匠の名、御国奉行の姓名をも書き連ねる。
何年か前、但馬様の賄荻本小左衛門という者は訳あって追い出され、剃髪して休意と号し、三州矢矧村で庵構えていたが、昨年また追い出された。
年は68歳であった。
名古屋杉之町の以前召仕えていた者のところへ潜り込んで、出て行かなかった。
なだめすかしても出て行かなかったので町に断りを入れ、町奉行から足軽がやって来て追い出した。
これは6月27日のことであった。
28日には長者町下、蒲焼町下る西側の2軒目の店に腰をすえて動かなかったので町代に断りを入れ、町中でここから追い出した。
それからは方々をさまよったが、昨日5日に広小路伊勢町と大津町の間の道の真ん中で綿衣を著(着)て倒れており、この朝死んでしまった。
弟がいて手習いの師をしていたが、悪人だからと寄せ付けなかったと云々。
町の者が親類でもいるのかと尋ねると親類も縁者もいないと答え、死ぬまで弟のことは話さなかった。
一度も物を乞うことなく死んでしまった。
悪人は悪人であるが、さすがに刀を差した者の死に方と云々。
10年ばかり前に某氏もこのように没落して高蔵の森にいたが、昔仕えた草履取が聞きつけて毎日食事を届けたが、お前にこのような姿を見せるのは本意でないと食を絶って死んでしまうと、草履取りは悲しみ、旦那寺正万寺町長徳寺へ行き、訳を話し身元を隠して追善を行った。
この使用人と萩本の使用人では雲泥の差であった。
弟もまた弟であるのか。
近頃、枇杷島への道を山城守百姓で堀越の者が馬を牽いて通っていると、瓜売数人と口論となり、瓜売が棒で百姓の頭を打ったので血を流し、強請られたので金を出しておさめたと云々。
近頃、天野源蔵には男の子がいなかったので天野小麦右衛門二男太八を養育したいと願い出た。
太八は幼少だったので養子とは願い出なかった。
文章には自分は50になったけれど実子がいないのでと云々。
これは飛騨守からの内意であった。
文章では養育であるが、これはもはや養子のことであった。
養育の願いは済ませる。