正徳1年12月2日。
辰半(午前8時)から能が始まる。
連枝様方が見物するのは丑年と同様のこと。
楽屋奉行は水野覚太夫・蜷川伴右衛門が勤め、黒門頭は松井惣兵衛・遠山小兵衛が勤める。
惣支度は汁・くづし2つずつ。
大こん・いも・しめじ・午房・水和(みずあえ、なます)いり酒あへ・葉にんじん、するめ、香の物、冷酒、新酒。
中入の間、白洲の町人には強飯(トリノコ)を1包ずつ下される。
その上に饅頭も下される。
1日に700人ほどずつの予定と云々。
初めと終わりに2度襖が開き、公が現れて御目見がある。
月番老中へ礼がある。
御目見衆は月番国用人衆へ行くようにと目付の指図がある。
日が暮れる前に能が終わる。
隼人正が舞台階懸まで現れ、能を始めよとあいさつしたのは一昨年と同様だった。
御三家の他、笛・鼓などの者は舞台に毛氈を敷き、そこに居る。
江戸では10万石以上でなければ舞台を作ることができなかった。
鉄門加番足軽16人は過料銭4貫800文を出す。
1人は300ずつ。
目付方から寅刻(午前3時)に立番などするように修理殿へ言ってあった。
修理殿から足軽にこの通りにするよう申し付けてあった。
寅刻(午前3時)に出向いたが、出入りの者が一向になく、寒さも耐えがたかったので人の出入の様子をうかがっていると、寅半(午前4時)過ぎ野崎七郎左衛門がやって来た。
その後鈴木安太夫もやって来て、立番などがいないのを見て押しの者を寄越し、詰問し、その後修理殿へ目付から話があった。
終に過料となった。