名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

朝鮮通信使がお戻りです

正徳1年11月29日。
申(午後3時)前、三使が性高院へ到着する。
出入りに鉄砲を放つのは先日と同じであった。

対馬守は惣見寺から来られる。
七五三(膳)を共に食べる。
五々三などが出たのは来聘の饗応と同じであった。
巳刻(午前9時)前から先立の韓人が来る。

文左衛門は絵と文字を書いてもらおうとするが遠慮するようにとの取り次ぎがある。
その上目付・五十人目付が代わる代わる席々を見廻るので文左衛門は席に入れなかった。
明け方に少し時間ができ、絵を4枚貰う。
1枚には人形を逆さに書いてあった。
三使への使者は中村又蔵、生駒外記が務める。
銀は大台1つ、小台に2つに紙で書いてあった。
大折も1つずつ下された。

正使への下行(タマモノ)を文左衛門が見ると、雁1・真かも・嶋ゑび5・鶏卵10が1つの台に。
大鯉1・中鯉1・このしろ5、章魚(たこ)1・鰡1・鯛1が1つの台に。
この他に鹿足1本、生きた鶏2羽。
葱苳(スイカズラ)酒・味淋酒・焼酎・酢・醤油はそれぞれ小さな徳利に1本ずつ。
塩は篭に入り、味噌は小桶に、白米は箱に入っていた。
副使・従事へも同じであった。

韓人の料理するところを見ると真箸(盛り付け用の箸)を用いず、手づかみであった。
また食事の様子を見ると、足を放り出し、互いの膳のものを箸を入れ合って食べ、その上上々官といっても鼻をかむのに紙を使わずに手でかみ、座席へ痰・唾を吐くような無礼な行いであった。

この日星野七右まで布衣であった。
対馬守は惣見寺へ帰られ、後はいずれも麻上下・熨斗目であった。
翌朝も同じであった。
来聘の時もこのように三使出入の時に側同心頭から用人衆などが出て立ち、式台の上の縁側畳の上にいた。
三使が時宜(あいさつ、辞儀か?)がすれば時宜した。
迎送は主悦と七右が勤める。
夕暮れ前急に好(親睦?)がある。
明日は朔日なので書翰を取り出して行うと云々。
今までの廻廊を延ばせとのことで、急に半右衛門が承り、2間(1間は約1.8メートル)ばり、18間とり(ママ)ぶき(取葺)で廻廊を足した。
たくさんの大きな篝、竹木の音、人足大工の叫び声は雷のようであった。
このため町奉行から急いで町々に性高院では夜急ぎの工事があるので、火事かと驚かないように知らせたと云々。
大工70人ばかりが夕暮れに作業にかかり、寅刻(午前3時)に出来上がる。
明け方に三使が現れ、少しの間何やら呪文を唱え、音楽が流れる。
このように廻廊を造らなくても事が済んだことであった。
わが尾張のような貴い国であったので行うことができたが、他の国では朔日でも行わなかったと云々。

来聘の際の使者は起に成瀬修理、鳴海へ渡辺新左衛門であったが、今度は鳴海へ修理、起へ新左であった。
性高院では世中花という小童を町人が口吸(接吻)したのを喜ぶと。