名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

朝鮮通信使が到着です

正徳1年10月5日。
建中寺へは名代を送る。
供の五十人衆などが韓人の用務で不足したためか。

韓人は起へ4つ頃(午前10時)になって到着し、昼過ぎに出発する。

性高院へ下官などが昼頃から段々到着する。
中官も申(午後3時)前から段々とまず到着する。
荷物を置く場所は前々より決めた場所に従わなかった。
自ら抱えて本堂の椽へ上がり、あるいは轎(籠)を置くところなどに積み置いた。
通事(通訳)は遅れて到着したので役に立たない養子であった。

戌8刻(午後8時半過ぎ)、三使が到着する。
正使が門に入る際には鉄砲を放つ。
式台の下で立って待ち受けていた韓人は書翰(ママ)轎より三使が入るたびに音楽を奏でる。
文左衛門の親はこれを見物する。
また通じなけれど言葉を交え、飲食の様子や言葉、饗応の様子などを見物する。
対馬守は惣見寺から亥8刻(午後10時半過ぎ)にやって来る。
家老は大紋(だいもん)、用人などは布衣(ほい)、その他は素襖(すおう)を着る。
上々官3人には日本語がよく通じた。
対馬守は迎えのため本堂の縁側で待ち請けた。
対馬守は三使の席へ行き、両長老と共に6人上段1間で饗応がある。
褥(しとね)6つを南北に分け置く。
両家老、飛騨守は大紋で下段へ現れ、渡辺新左より以下は布衣で現れて会釈がする。
星野七右より以上は布衣、以下は手代共まで麻上下を着る。
足軽などまでも。
三使の迎えに甚太・新六・主悦・七右などが現れる。
対馬守の時も同様であった。
対馬守は24、5で、四目結(よつめゆい)の紋であった。
対馬守が着いた際と帰る際には音楽を奏でる。
対馬守が帰る際、明け方荷物を出す際、翌朝三使が出かける際には鉄砲を放つ。

饗応の礼に三使のうち1人が惣見寺へ出かける。
対馬守に謁したということは事実か確かめるべきことである。

音楽を奏でる者は皆赤い羽織のようなものを着ている。
韓人に罪があれば主人が𠮟責し、この音楽を奏でる者に命じて式台下の縁取の上にうつぶせにし、冠り物を取って臀をだし、先は少し大きくて面は中が盛り上がり、裏は平らな3尺(1尺は約30センチ)の鞭を持ち、叱責しながら斜に構えてしたたかに尻を打った。
その音が大きく響き渡り、打つ度に泣き叫んだ。
文左衛門は側にいて見るに耐えなかった。
3度打って止める。
その後またほかの者を打とうとするが、ほかの韓人が詫びを入れたのか打たなかった。

海峯花菴は達筆で、書いたものを多くの人貰う。
竹里という絵描きは上手であった。
いずれも上々官であった。
3人とも夜半から筆をとり、明け方まで止めず、少しも眠らなかった。
そのすざましい根気は称えるべきである。
文左衛門も文字と絵を貰う。

性高院で三使へ大折が1つずつ下される。

本町通り広小路上る東側に馬の沓・草履・柿・蜜柑などがたくさん積み置かれる。
その他銭屋・両替屋は広小路から下あちこちにあった。

大光院へ中食、あみだ寺・極楽寺へ下官、光明寺へ縁長老が入る。

養林寺へ集長老が入る。
西光院へ平田隼人、浄久寺へ大浦忠左衛門が入るが、両人は対馬守家老であった。
その他の寺々町々の宿はいちいち記さず。