宝永8年2月28日。
4つ(午前10時)過ぎ、文左衛門は文四へ出かけ、酒などを頂く。
一緒に法花寺町下高田宗賢隆寺へ出かける。
今月5日から来月5日まで赤津村関尾山万徳寺の宝物を開帳している。
本堂修復のためと云々。
3尺(1尺は約30センチ)あまりの立像は聖徳太子の木像で、その西には古法眼筆するところの善光寺如来絵伝四幅がある。
東に聖徳太子絵伝、四幅中二幅は新筆、両脇は土佐光信と云々。
毎日4つ時(午前10時)に大師伝、8つ時(午後2時)に如来伝、満徳寺がこれを説く。
その南に仮屋を構え、親鸞の木像と親鸞自筆の影の掛物と同筆の名号、六字(南無阿弥陀仏)でなく恵心の阿弥陀がある。
赤津の庄屋九兵衛の世話で門前の脇寺で吸物・酒・冷めし・まんぢうなどを頂く。
駿河町下を廻り、未(午後1時)頃帰る。
未半(午後2時)から新蔵・甚左・清香院がやって来る。
亥(午後11時)過ぎに帰る。
磯貝如山が死ぬ。
九郎左衛門こと天野勘介が昨夜そば切を頂き、こたつで臥せていたが、夜中にうなり声がしたので見ると死んでいた。
38歳、日頃大食いで下戸であった。