名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

小田切春江さんが行列を描いてます

宝永7年10月28日。
薩摩守吉貴(タカ)は昨夜桑名に泊まり、未(午後1時)頃、熱田で昼の休憩をとった。
この時文左衛門が出向いて見物したところ、東の裏道から本陣に入られたので見ることができなかった。
見物が多く集まった。

申(午後3時)過ぎ、また先ほどの町家へ行き、琉球人を待った。
昨夜は四日市に泊まっていた。
100万の見物人が次から次へと続いた。
五十人目付小笠原与一兵衛・野原新八は上下を着て廻り、押の者も現れた。
日が暮れると戸に行燈・提灯を出し、船の揚場には大篝を焼いた。
酉半(午後6時)、琉球人が通った。
先ず、舞鶴の絵がある輿が2つでからごし(唐輿)であった。
□(木に斉か)のような符(守り札)、紅のかさぼこ(傘鉾、かさを開いたような雲)のようなはた(旗)。
2人の使者は乗物に乗っていた。
側には小姓などで頭に作り花を挿し、金銀のように光る笄(かんざし)が見えたが、灯の影でよくは見えなかった。
書翰(書簡)と書付のはいった箱2つがあった。
その他は記さない。
残る100人余りの琉球人は汐が引いたので海に残っており、夜中に宿へ着いたと。
灯明場の石垣から見物していたところ、落とされて2、3人が落ちてけがをしたと云々。
主馬の母は永昌院東の御茶屋屋敷で見物した。
伝馬人足の公儀からの証文には松平薩摩守支配の琉球人とあった。
薩摩守の荷物の札などには薩摩守内美里王子などと内(ウチ)書があった。
琉球人使者の人数170人。
夫、900人。馬、200疋。
雇夫、150人。賃馬、150疋。