名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

凶悪犯罪発生

宝永7年閏8月29日。
申刻(午後3時)、納屋で火事がある。
少しのぼやなのに、後で皆が大騒ぎする。

今年、籏多門から干飯を運び入れた多門まで修復する。
作事奉行は鈴木弥右衛門が務める。
この間の石垣の足代(足場)は長さ400間(1間は1,8メートル)であった。
1間1両の予定で縄・竹・手間を含めて円六が請け負った。
霊屋塀下の石垣ならびに敷石・礎石など合わせて438、9両であった。
石燈篭は家中から28基出され、1基につき3両ほどであった。
西鉄門の両脇、南北の多門は昨年平田半右衛門が建て直していた。
太鼓櫓、その東の櫓とも去年今井甚左衛門が修造していた。

近頃、清須すか口(須ヶ口)の者が木綿4、5反と持ち歩いていると、生田の橋のあたりで切り殺され、金も木綿も盗まれた。
この者は今市場の伝六という60ほどの者で、耳から1寸(1寸は約3センチ)ほどの深さ、5寸ほどの長さの傷が1ヶ所であった。
水に落ちて死んでいた。
検分があるまではうなり声をあげていたが、話すことはなかった。

近頃、増田藤左衛門が乱心する。
日頃から身持ちが悪く、乱暴者であった。
六郎兵衛の子であった。

前に記した浄土と日蓮の法論で、それぞれが自分たちの言い分を話していろいろなことがあったが、日蓮宗僧2人が遠嶋、仲間が追放となった。