宝永7年5月5日。
熱田馬の頭は巳刻(午前9時)までに終わるようにとの申し渡しがある。
紀伊中納言家が熱田に泊まられ、西御殿に入られる。
ただし、供応は請けなかった。
中納言の馬は羽織がなく、草鞋を着けていた。
道中は大方歩かれると云々。
供の騎馬は皆草鞋にす(素)足であった。
小姓衆も同じであった。
いずれも板泥障(あおり)で、武を第一とする様子に見え、御家人・歩行の者は羽織もなく、槍印もなく、羅紗(らしゃ)類の馬具もなかった。
翌日熱田から直ちに松坂へ海を渡られた。
申刻(午後3時)に着いたと云々。
初めは長屋の船に、沖で千賀の船に移られ、松坂まで乗っていかれた。
この度、新しく鋳た小判が当地に来る。
長さは1寸(1寸は約3センチ)9分(1分は約3ミリ)、幅は1寸少し余り。
重さは2匁6分。
金色が見事であった。
表の紋は昔と同じで、裏には乾の文字が印されていた。
乾は元に亨る貞(タタシキ)に利ありという事と云々。
1分判は重六と印されていた。
御屋形で朝鮮人来聘の道筋を尋ねる書付が寺社奉行・国奉行・町奉行・熱田奉行・大道奉行・代官などへ渡る。29年前にはこのようなことはなかった。きっと今度は万事大がかりな馳走と思える。