宝永6年8月5日。
巳刻(午前9時)、長袴で建中寺を詣でる。
宝永6年8月7日。
この日の朝丑刻(午前1時)、供を揃え、寅刻(午前3時)に衣冠を重ね定光寺を詣で、酉刻(午後5時)に城へ戻る。相応寺筋は提灯を出さなくてよいとのことで提灯を出さなかった。飛騨守・伊与上が供をする。
宝永6年8月13日。
この日、岐阜へ出向くはずであったが中止となる。これは鳥殺生(狩猟)のことでわざと延期した。
宝永6年8月14日。
未(午後1時)過ぎ、南御屋敷に初めて入る。
宝永6年8月15日。
御屋形瓦長屋物見へ入り、八幡祭を見物し、午半(午後0時)に帰る。袴はなく高麗門より馬で入る。大びらき(開きは戸のことか?)から庭を通ってやって来て、御屋形の座敷には入らなかった。御局も見物する。曲太鼓打に名人がおり、様々な技を披露する。船入町の踊りは5番、納屋の踊りは5番、毘沙門の車は筑後節、大公望の車も同様。弘法文珠車は文珠節。帰りには桟敷の前で曲太鼓を打ち、踊りは1組ずつ最初だけを踊り、車での浄瑠璃は行われなかった。太鼓矢倉の下まで引いてきて、公が帰った後にまた引き戻し、梅昌院様見物の前で踊りなどを行う。八三郎様の見物では公の見物からすぐに出向いて踊り、梅昌院様のところでまた踊りを行う。ただし神楽太鼓などは行わない。梅昌院様のところでは公が帰った後、1度踊るだけである。公から踊りの町人に100入ったまんじゅう5つを撒き、和泉屋権右衛門だけに樽5つを下す。八三郎様は門を設え、連枝様方が見物する。
宝永6年8月16日。
御下屋敷へ出向く。
宝永6年8月18日。
未(午後1時)過ぎ、御狙(ママ、意味不明)から竜泉寺へ出向く。
宝永6年8月21日。
巳刻(午前9時)、御下屋敷から城へ戻る。