名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

恐ろしい女房だな、しかしお腹にいた子まで罰せられるのか

文政4年12月2日。
厳罰を仰せ付けられた者を記す。
じうという女に佐助という夫を殺したわけを尋ねると、生まれつき淫乱で情夫がたくさんいたと。
生まれたところについては最後に記すのでここでは略す。
佐助は貧乏で季節ごとの衣類などもままならなかった。
そのため夏服を質に入れて冬服を用意するようじうに申し付けたが、前から情夫勘蔵のために質入れしていることを打ち明ければ、短気な勘蔵のことだから折檻されると途方にくれ、夫に酒を飲ませ、ひどく酔ったところを鯰突き鑓で刺した。
ところが佐助は強力で追いかけて来たが、傷が深く倒れて死んでしまった。
身を投げようと川へ行ったが、にわかに命が惜しくなって生まれ故郷の仏師川村へ行き、親に事情を話すと親は怒ってすぐに追い出されたので、戻って勘蔵に話し、立ち退こうとしているところを召し捕ったと。
じうは懐妊していたので安産の後、12月2日に土器野で厳罰に処せらる。
この子は男の子であり、15才になると厳科が仰せ付けられるのが習わしであったが、この類は多く出家すれば御免になると。
この時の高札の写し。
生所御料濃洲安八郡仏師川村。
居所同州同郡成田村。
佐助女房じう。
衣類質入れを夫佐助が申し聞かせたが、この品を夫に隠して質入れしていたので弁解の余地はなく、ならびに佐助は日ごろから立腹した際には手荒く折檻したので、この質入れのわけを話せばいかなることになるかもしれないと佐助を殺害し、その上勘蔵という者と密通していたことは不届き極まりなく、引き回しの上、獄門とする。
巳12月2日。
生所濃洲石津郡駒野村。
当時同州安八郡上成田村。
太夫下人勘蔵。
この者、田村佐助女房じうと密通したことは不届き極まりなく、死罪を申し付けるところであるが病死しているので、死骸を取捨(刑罰の一種で死骸を葬らないこと)申し付ける。
巳12月2日。