名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

改易にはわけがあった

元禄8年4月28日。
曇。
昨日、兵右衛門家老近藤作太夫のところから仲間へ触状が来る。
兵右衛門が言うには、明朝6ツ半(午前6時)に出仕するように。
明番の輩はそのまま出仕するはずである。
文左衛門が出仕すると兵右衛門が話してくれた。
伝太の改易について直接それぞれに話すためであると。
先日、玄蕃殿より呼ばれて言われたのは、伝太夫の様々な不行跡が耳に届いているので改易を申し付けたと。
それぞれはもちろん子息兄弟に及ぶまでますます諸事謹むように。
そうしてそれぞれも小頭両人のところへは人を遣わさず、小さなことであっても直接やって来て告げるように。
もし直接告げるのをはばかるようなことであれば、近所最寄りを頼って言うようにと。このため巳刻(午前9時)文左衛門は源右衛門のところへ行き、このことを話す。
これにより、仲間衆から来た手紙も召仕に言いつけて見ることはせず。
また僕にも月額を剃らせず。
九兵も同様。
(中略)
そもそもこの度の伝太夫改易の原因が不行跡ということは知らなかった。
様々な噂話がこの時に起こった。伝太夫は児玉へ脇差だけで操りを見に行き、町人に唾を吐きかけられて大騒ぎになっただの、弟弥三右衛門の悪行だの、淫乱だのと。実際のことはわからず。