名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

原因は貧困か

元禄7年6月19日。
文左衛門は風邪をひき、拝謁に参上せず。
辰半時(午前8時)、公は御下屋敷をお訪ねになる。
孔雀の御門からお出になる。
今村弥助の手代ふたりが御預けとなる。
これは今月16日に山崎のあたりの寺でうどんを食べているのを柿羽織が見てこの如くと。
ただ本当のことはよくわからず。
平沢清助の借家の住む者男女5人が清助に御預けとなる。
その内亭主と浪人の娘は願いにより牢に入る。
残りの者は手前(清助?)へ引き取る。
先頃、松平助之進が改易になった際、娘ふたりは生活が苦しく奉公に出ていた。
ふたりとも人目に付く絶世の美女であった。
後に妹は奉公を離れ、清助の借家に住む平助の元に身を寄せ、色を売って生活していた。
住まいは平助のところとし、30日ずつ方々で過ごしていた。
世間ではこれを元三大師と言っていた。
姉は織田太郎右のところへ奉公に出ていた。
その後そこを出て、成田竹右衛門のところで妾となり寵愛を受けていた。
切米(手当)は2両2分、程なくしてこの女も町へ御預けとなる。
近頃、この女はめかしこんで真福寺へ参詣した。
その様子は往来でも目立っていたので、柿羽織はこれを見とがめ、後をつけると妹の住まい平助のところへ立ち寄った。
そしてまた出かけると、竹右衛門のところへ入っていった。
柿羽織はじっと見て、目明しを平助のところへ行かせて様子を窺わせた。
するともうひとり女がいたので女を問い詰めると事が露見すした。
姉は平助の娘だと。
竹右衛門のところへも町奉行より知らせがあった。
以前から町ではこの者たちを不審に思っており、清助に知らせて借家を取り払うように言っていた。
清助はあるき(使い走りする者)を呼んで聞くと、差しさわりはないと言った。
そのため取り払うこともせず、町へのお咎めもなし。